<AOR(フレデリック・スラマ)>
 1963年1月23日フランス:パリの生まれ。12歳の時、パリの映画館で映画が始まる前に流れていたイーグルス<One Of These Nights>に魅了され、自分もあんなミュージシャンになりたい、と、ギターを始める。また、彼の父親がフランスで最も大きい報道記者のグループを持っていたことから、13歳で父の手伝いを始め、17歳の時からプロのジャーナリストとして活動。その年齢で公認のプレス・カード(プロのジャーナリストである証明書)を手にするという最年少記録を打ち立てる。また、14歳の時に英語を学ぶために3ヶ月LAに滞在。それ以来、頻繁にその街を訪れ、また長い期間住んだりしてきたが、その間、イーグルス、ジェイムス・テイラー、クリストファー・クロス、マイケル・フランクス、TOTOの面々…他300人を越すアーティストにインタヴュー。加えて、メグ・ライアンやキム・ベイシンガー他、映画俳優も200人以上にインタヴューするという精力的な活動を行う。
 『フランスにAOR/西海岸音楽を普及させるのが僕の任務』と語るフレデリック・スラマは、1980年代前半からFM番組を数本手掛けたり、また、毎週末パリのクラブで"AOR Night"と呼ばれるイヴェントを行ったり、積極的にAORを紹介。その方面では世界的なコレクターの1人にも数え上げられているが、1990年代に入るとアーティスト(ギタリスト、ソングライター)としての活動がグッと前面に出てくるようになる。デヴィッド・フォスター、キャロル・ベイヤー・セイガー、トム・スノウなど、名だたるソングライターが所属するNAS(The National Academy Of Songwriters)のメンバーにもなり、LAの音楽シーンにおけるステイタスをしっかりと確立。そして、1992年に初のソロ作「L.A Rendez Vous」を制作する。このアルバムはあくまでも、スラマがどんな音楽を書く人間かを、他のアーティストやプロデューサー達に伝えるデモ盤で、正規のリリースはしていないとのこと。そんな彼の本領発揮ともなったのが、2000年からスタートするプロジェクト:AORである。このバンド(スラマは敢えてバンドという表現を使っている)では、2000年に「L.A Concession」、2001年に「Next Stop L.A」と発表し、2002年秋に早くも3作目の「L.A Reflection」を発表。1st、2ndの2枚にもリチャード・ペイジ、スティーヴ・ジョージ、マイケル・トンプソン、カルロス・ヴェガ、レニー・キャストロといったAOR界の名手が参加していたが、それが数倍の豪華さを纏ったのがその3rdアルバムで、バックにはスティーヴ・ルカサー、マイケル・ランドウ、マイケル・ラフ、ブルース・ガイチ、ヴィニー・カリウタほか、LAの顔とも言うべき凄腕ミュージシャンが多数参加。また、1992年、この世を去ってしまう直前に録音したジェフ・ポーカロとのセッションを今回ニュー・ヴァージョンで収録。そこには、ジェフのほかに、スティーヴ&マイク・ポーカロ、デヴィッド・ペイチも参加している。
 そして2003年8月、日本先行で4作目の「Dreaming of L.A」を発表。このアルバムでは長年の夢だった2人のヴォーカリスト:デヴィッド・ロバーツとデイン・ドナヒューの参加が実現し、そんなことからタイトルに"Dreaming"というフレーズを使っている。他にも、ビル・チャンプリンが2曲、デヴィッド・ディッグスの娘:レイチェル・ディッグスが1曲リード・ヴォーカルを務めるなど、前作よりもアダルトで時にはジャズ・フュージョンのテイストも盛り込んでいる。また、ファンからの人気が特に高い<Never Gonna Let Her Go>と<Worlds Away>を別テイクで収録。文字どおり、ファンには堪らない、ボーナス・トラックになっている。
 そして、2004年4月、日本先行で初のベスト盤「Nothing But The Best」をリリース。過去の作品から選りすぐった12曲に加えて、3曲のニュー・レコーディングも収録。そこでは、デイン・ドナヒュー(2曲)と、元TOTOのファーギー・フレデリクセン(1曲)のヴォーカルがフィーチャーされている。
 さて、フレデリック・スラマとはどんなアーティスト? その質問に対し本人はこう答えている。
『とても熱い男で、ひとつひとつの動作その全てに、沢山のポジティヴなエネルギーが詰め込まれている。
 それから、典型的な完璧主義者だね。そして、常に心をオープンにし、音楽の力−the power of music−を信じているんだ』